
今回この記事はコラム形式でお伝えします。
笑みちゃんを迎えて生活しているなかで、たまにふと、
この子を飼ったことに、罪悪感のようなものが湧いてくることがある。
私たちに、犬を飼う資格が本当にあったのか。
あの子のときのような後悔を、また繰り返すんじゃないか。
そしてもう一つ。
この子も、いつか私たちの前からいなくなってしまうのだという、
説明のつかない恐怖が、心のすき間から忍び寄ってくる。
分離不安という言葉があるけれど、
もしかしたら、それは犬よりも、人間のほうにこそあるのかもしれない。
ふと、部屋の中を見渡してみる。
すると、そこには先住犬との思い出のカケラが、今も静かに残っている。
ずっと捨てられずにいるおもちゃ。
何個か試したリードたち、
毎日見ていた景色と、いなくなった後の時間。
そして今、その同じ部屋のなかに、笑みちゃんがいる。
毛布の上で丸くなって、気持ちよさそうに眠っている。
ふたつの記憶が、時間を飛び越えて重なるときがある。
過去の犬と、今、目の前の犬とが、一緒にいるような不思議な感覚。
だからこその前に、
先住犬と笑ちゃんが一緒にいる錯覚を覚える。
それはきっと、悲しいことじゃない。
忘れられないあの子がいたからこそ、
いま笑みちゃんとの日々を、大切に感じられているのかもしれない。
私たちが、今、この子にしてあげられることはなんだろう。
完璧な世話をすることじゃない。
将来の不安をゼロにすることでもない。

きっと…
今日も一枚、写真を撮っておくこと。
行きたかった場所に、連れて行ってみること。
撫でながら、「ありがとう」って言ってみること。
それくらいの、小さなことでもいい。
それがきっと、未来の自分を救ってくれる日が来る。
思い返してみると、
笑みちゃんと過ごしている日常のなかで、
ふと先住犬の姿が重なって見えることがある。
玄関に向かってふり向いた顔。
なぜか同じ位置に座って居る姿。
水を飲んだあとの、ぺちゃぺちゃという音。
そこにいるのは笑みちゃんのはずなのに、
なぜか、あの子も一緒にいるような錯覚を覚える。
たぶんそれは、私たちのなかに今もちゃんと残っていて、
そして、今のこの子と確かにつながっているからだ。
そう考えると、
「またいつか別れが来る」という恐怖も、
少しずつやわらいでくるような気がする。
純粋に、
私たち自身が年老いて、いのちの終わりが近づいたとき、
きっと“死ぬこと”自体はそんなに怖くないのかもしれない。
だって、そのときにはきっと、
あの子も、この子も、そしていつかまた出会う子たちも、
ぜんぶ自分の中に生きていて、
静かに、ただ「会える気がする」から。
だから今日も、そばにいる笑みちゃんに「ありがとう」と言おう。
それだけで、じゅうぶんだ。
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